不撓不屈 6月号 山親爺部長所感

今月のテーマは「好きな必殺技」だ。山親爺部長の鼻息が、荒いぞ!

 

何の因果か、自分が選んだテーマで苦しんでいる。出したい話が多すぎるのだ。

必殺技と言えば、アニメや特撮ヒーローものに代表されるものから、いわゆる時代劇においての必殺剣や忍法あるいは仕掛人各々の必殺技、ファンタジー世界での魔法、ビジネス世界の「倍返し」、宇宙戦艦の「波動砲」、宇宙海賊の「サイコガン」と枚挙にいとまがない。「これは良いテーマを選んだ」と喜んでいたが、実際にキーボードに向かってから、俺は途方に暮れてしまった。

何を書けば良いのだろう。

 

既に6月も最終週に差し掛かった今、ようやく腹が決まった。

俺の冒険小説好きを決定づけたあの二人に登場してもらうしかない。

 

1984年の創刊から読み耽り、世界観に浸り、文章に酔いしれた夢枕獏の「闇狩り師シリーズ」。主人公の九十九乱蔵は“ミスター仙人”の異名を持つ仙道と中国拳法の使い手で、様々な妖異、怪異に対峙するトラブバスターを生業にしている。通称「祟られ屋」。退治ではなく対峙するところに奥の深さを感じるね。

沙門<シャモン>という小さな黒猫に見える猫又<部長訳・人と共に長く暮らし情念や怨念を見続けて齢を経て死んだネコの妖怪>が肩に乗っている。トヨタのラウンドクルーザー<6500cc!>で颯爽と現れる乱蔵は、どうやって運転席に座っていたのかと疑うくらいの巨漢。体重145kg、身長2mと破格の質量を誇る巨躯の持ち主。イメージは、まるっと「岩」なのだ。

彼は台湾・高雄<たかお>の山中で現代に生き残った最後の仙人に弟子入りし、仙人が舌を巻く忍耐と素養で仙道を極めていたのだった。台湾なのがいいね。中国では崑崙や敦煌あたりまでいかないと深山幽谷な感じが出ないよね。台湾であることで、程よいいかがわしさと未知の領域間隔があるでしょう?

日本に帰国して「祟られ屋」を開業して、日本各地で転戦している。「管狐」「餓鬼」「陰陽師」と多彩だが、なんだか日本的なのかも怪しい。勿論、必殺技は「仙術」である。

当時から疑問に思っていたことだが、仙術、妖術、魔術、呪術など発生する国や地域が違う場合でも効果が一定に得られるという正に「効果に変化がない」のはなぜだろう。

様々な術の根幹をなしているのは「ことば」のはずだ。全て祝詞なり、呪文也を持っているし、術を発動するために発声が不可欠の名図である。例えば呪術でいえば、「呪詛」や「呪文」は本当に効果がある。例えば相手に対して「お前を呪ってやる」と声に出すだけで、実は呪術は完了しているのだ。あとは「ことば」を受けた側が、何かが起こった度に「あいつの呪術か?」と思うのだ。しかもかけられた言葉を忘れるまで続くという恐ろしい効果なのだ。

ところがこの呪詛を外国人に聞き覚えのない言葉で言われた場合にはどうだろう。多分言葉を駆けられた方は「何言ってるんだ」程度にしか記憶しないから、いつまでも気に病みはしない。呪詛の失敗である。呪詛の失敗は呪詛を駆けた方に返ると言われている。これも至極当然で「あいつ呪いをかけたのに、幸せそうだ」と術者本人が考えるだけで不幸な気持ちに陥る。これが呪詛返しである。自分でかけてしまう呪詛なのだ。

閑話休題(時を戻そう)。だから言語は大事なのに、九十九乱蔵台湾で修行して、日本の妖怪、怪異と対峙していることが不思議なのだ。そこも魅力なのだがね。

 

さてもう一人は、菊池秀行の「妖魔戦線」。「念法」<ねんぽう>の達人・工藤明彦は、恋人を妖魔に襲われさらわれてその復讐に立ち上がる。必殺技は「念法」という剣術と念力とを合わせたような剣法なのだ。幾多の魔人をバッサバッサと切り伏せるところが格好いいんだが、ストーリー上では、工藤のいないところで数多の美女が妖魔にヤラレていく。エロい、とにかくエロい!「この妖魔たちは、絶対俺の性癖と趣味を知っているぞ」と思わせるほど、ツボをついてくるので、俺のアンテナが感度ビンビンであったと当時の記憶が囁いている。最近ではアンテナがどこに行ったのか捜索願を出さなければならない事態だというのにね。

閑話休題(時を戻そう)。この菊池秀行という作家は、早稲田大学推理小説研究会の部長を経験し、当時の顧問だった山村正夫(ミステリー作家)に師事している。が、もともと幼少期からの怪奇映画と幻想小説好きが影響して、この形のスタイルとなった。

つまり夢枕獏も菊池秀行も、エロ、グロ、バイオレンス、戦闘の世界を構築する名手なのだ。うぅ、堪らん!これには前例がいて、西村寿行大藪春彦などのハードロマン作家と呼ばれる人たちの功績が大きい。圧倒的火力を有する敵。奥行きの知れない組織。巧妙な罠。得体のしれない敵のボスたち、この脂っこい悪訳たちに絶え間なく被害にあう善良な老若男女。そして悲劇のヒロインが、満を持して登場し主人公との愛、葛藤、略奪、奪還だったりする。出てくる奴らはカルトだったり、非情な犯罪集団だったりと多彩。ああ、もうこんな話は読めないのかな?社会正義意識が強すぎて悪役さえコンプライアンスを意識する時代なのか。「純粋な悪」がいないと、正義の味方も存在が希薄で、読んでいて集中できない。悪い奴はどこまで行っても悪い奴で、改心できる奴は最初から性根が腐っていない。つまり物語には絶対悪が必要で、これを完膚なきまでに成敗してもらったときに初めて読者は爽快感をもって共感するのだ。

と綺麗事を書けば書くほど、嘘くさい。だって俺は「エロ・グロ・バイオレンス」が好きって言ったばかりじゃないか。但し「実は金田一耕助が一番の人殺しだ」説と同じで、悪い奴がいないと正義の味方の出番もない訳で、必殺技を持っていても、無駄というわけなのである。

実は山親爺の必殺技は「エロ・グロ・バイオレンス」なのかもしれない。